金科玉条

【漢字】金科玉条
【読み】きんかぎょくじょう
【意味】従うべき規律や法律。
【例文1】生徒は金科玉条に従う。 
【例文2】金科玉条は守る。
【例文3】金科玉条に反する。

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金科玉条は大事

金科玉条とは守るべき規則や法律のことです。
会社や学校や地域など人が生活する場所には必ずと言っていいほど規則や法律があります。中には細かい規則があるところもあり、めんどうくさいなと思いますが、この規則がなかったら、人は好き勝手し放題で大変な事になるのでやはり規則は大事です。
私が通っていた高校は田舎の公立校でスカート丈や女子の髪型や色、指定された髪を結うゴム、ピンの色、爪など決まりがあって中学生かと言いたくなるほど厳しかったです。
月一くらいで容疑検査があってました。毎回なんかしらに引っかかってうんざりでした。大学に入ってから髪を染めたり、自由になったのが嬉しくてウソのようでした。
卒業して保険会社に入りました。制服の決まりはなかったものの毎日、暗めのスーツで出勤しています。私の会社の規律はお堅いですが、お客様あっての営業なのできちんと守っています。
社会に出ると時々理不尽な事で言い寄られることがありますが、両者の言い分は譲れません。揉め事が大きくなると法的手段を取らざるを得ません。

雲に汁

【漢字】雲に汁
【読み】くもにしる
【意味】
【例文】

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雲に汁とはなにやら不穏な感じ?でも本当はラッキーな兆し!

「雲に汁」ということわざの意味は「事態が好転しそうだ」というラッキーな意味があります。
例えば、就職活動がうまく行っていなかった学生が諦めかけていたところ、思わぬ大企業から、面接に呼ばれるなどの時は正に「雲に汁」と表現できますね。

それから、便秘がちな女性が腸の働きを促す運動をするとなにやらおなかがゴロゴロ鳴り始めたなんてときも、これは、「雲に汁では?」と使ってもよいと思います。
マイナスの状況が改善されそうな兆しがあったら、「雲に汁」なんですね。

雲に汁というのは、雲に水分があるということで、雨が降るってことなので、なんとなく、運が悪そうな気がしないでもないのですが、この雲に汁というのは、水分不足の時に雨ごいをして雲に雨気が生じることなんだそうです。
確かに日照りが続いていると農作物に影響しますよね。
飲み水も不足しますし。
そんな時は雨がありがたいですので、まさに、雲に水が帯びて来たら、ラッキーな兆しということになりますね。

雨ごいで私が思い浮かぶのは、ニュージーランドクライストチャーチにいるウイザードです。
ウイザードとは男の魔法使いですが、彼は雨ごいをして雨を降らせるということを何度か成功させています。
イギリスからニュージーランドに移住した時は、「変な奴」と公的には思われていたようですが、最終的には、クライストチャーチ市だけでなく、ニュージーランドの公認ウイザードに任命されていました。
私も、旅行の時に彼からさかさまの地図を購入したことがあります。
彼の人生も途中から、雲に汁だったのですね。

任重くして道遠し

【漢字】任重くして道遠し
【読み】にんおもくしてみちとおし
【意味】
【例文】

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「任重くして道遠し」の心境から解放されるためには

どんなことでも捉えようにとっては、「任重くして道遠し」なのかもしれません。
しかし、捉え方を変えることでこの重たい気持ちを変えていくことができると思います。

道が遠いと思うのも、人生は長いと思っているからかもしれません。
しかし、年齢を重ねていくうちに、あるいは病気をした時などは、生きているということのありがたみを感じることがあります。

どんな任務でも自分に不必要なものであれば、わざわざ背負うこともありません。
とかく、さまざまなしがらみの中で生きてしまうと、時には「任重くして道遠し」と感じてしまうのではないかと思います。

同じ状況でもしがらみを強く感じてしまうと、それだけで心の負担が大きくなってしまいます。
また、もしこの任務をやり通さなければという気持ちが大きなストレスになってしまっているのかもしれません。

そういう時は近くのことばかりが気になってしまいがちです。
なので、少し自分の意識を話して見て、客観的、または俯瞰的に世の中を見つめてみることも大事だと思います。

案外、自分が悩んでいることは、大きな世界の中では非常にちっぽけで些細なことかもしれません。
大きな目で捉えていくことで、見え方が変わっていけば、捉え方も変わり、「任重くして道遠し」という心境から解放されるのではないかと思います。

人生は「任重くして道遠し」だからこそやりがいがあり生きがいになる

「任重くして道遠し」という言葉は論語に由来します。
字をみたままの意味で責任が重いうえに、なかなかやり遂げるのは困難であるという意味があります。
何かやらねばならないことがあるけれど簡単に遂行できないって時に使われる言葉ですね。

例えば、どこかの国の大統領が国民全員に幸せな暮らしをもたらしたいと思っている時なんかに使えますね。
なかなか一般人には国民全体の幸せを任されることはありませんが。

でも、一般人であっても、どこかの国の大統領よりはずっと小規模ですが、受験や、子育て、仕事など「任重くして道遠し」ということは山ほどありますね。
この論語は「いやあ、今、すっごく大変で、ゴールまで遥かに遠いなあ。」という状況を表すだけでなく続きがあり、「だからこそ、今を一生懸命目的をもって目標を立てて死ぬまでがんばろう。」というふうに続いていると私は理解しました。
そして、人生とはまさに、目標に向かってコツコツやり遂げている途中経過のことなのではないかなあと思います。

私は学生の頃、なんとか英語をものにしたいといろいろと頑張ってきました。
最終的に英語を教える立場にまでなった時に、ぽっかりと気持ちが空いてしまったことがあります。
目標に到達してしまった感じがしたのです。
そして、頑張っていた頃の私と目標に到達してしまった時の私を今俯瞰すると頑張っていた時のほうが充実していたなあと思います。
目標に到達することが人生ではなくて、その目標に向かって努力したりもがいたりすることが人生なんだなとふと思いました。

燎原の火

【漢字】燎原の火
【読み】りょうげんのひ
【意味】
【例文】

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燎原の火がよい状況を生み出すものなら歓迎したいですね

「燎原の火」とは「りょうげんのひ」と読みます。
この燎原の火 の燎原とは野原が燃えることを意味します。
野原というのは、山火事などでみられるようにあっという間に火がつくと燃え広がってしまいますよね。
そしてその火を消すことはなかなかできません。
それなので「燎原の火 」ということわざはあっという間に広がってしまって、もう、どうしようもできないような状況をさします。

山火事の広がりもなかなか防ぎようがありませんが、インターネットを使ったSNSも似たようなところがありますよね。
一旦広がってしまえば、誰にも防ぎようがないという状態になってしまいますね。
ですから、インターネットのSNSは偽情報や、悪い情報を流さないようにそして、いい加減な情報を信じないようによいことだけに使っていきたいものですね。

日大のアメリカンフットボール部の監督による不祥事は正に燎原の火 のごとく、日本中、そして、世界にも広まりましたね。
こちらは、悪しき習慣をSNSの力で防ぐことに繋がりなかなかよかったと思います。
悪の力を蔓延させないようにネットを利用するのはよいと思いました。

山火事を連想すると燎原の火 は怖いことですが、悪が世の中に広がって隠しようがないというような状況は歓迎すべきものだなあと思いました。

日大を糾弾する人々の声は「燎原の火」のように

アメリカでは大人気のアメリカンフットボールですが、日本では野球ほどには認知も人気も無いスポーツです。
そのアメリカンフットボールが、ここ数か月の間にテレビをはじめとして、多くのマスコミに登場するようになっています。
それは輝かしい試合中継というのではなく、ほんの数秒の選手の動きを映したものでした。
その選手は日本大学の選手で、マスコミで取り上げられるようになった動きは、対戦相手の関西学院大学の選手に対して危険なタックルをしているというもの。
そのタックルのせいで、関西学院大学の選手は大怪我をしました。
まだ試合が始まったばかりという場面での不自然なタックルは、実は日大の監督による指示だったことがだんだん判明するにつれ、アメリカンフットボール自体を知らなかったり、興味が無かったという人も注目するようになりました。
やがて、監督は日大の人事も握る人物で、誰もそのワンマンな言動に抗うことができないという日大の体制も、連日マスコミで解説されるようになります。
教育の最高学府としての大学で、教職員組合までもが反旗を翻すようになった今、社会では偏狭な日大の体質を改めよという声が「燎原の火」のように広がり続けています。

世は相持ち

【漢字】世は相持ち
【読み】よはあいもち
【意味】
【例文】

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世の中も夫婦も「世は相持ち」が平和を生み出す

「世は相持ち」ということわざがありますが、こちらのことわざは「よはあいもち」と読みます。
意味は世の中はみんなが持ちつ持たれつでお互いに助け合って生きていくのが好ましいということです。

世は相持ちとはなかなかいい言葉ですよね。
正に、思いやりの心をお互いに持つということが世界平和につながりますよね。
世界平和を達成することは困難ですが、身近なところから、世は相持ちを実践したいものですよね。
一番「世は相持ち」を実践したいのは、まずは夫婦だなあと私は思います。

多分、幸いなことに私と夫は世は相持ちができていると思います。
私は専業主婦ですが、夫は、私が夕飯を作ったり、夫の弁当を作ったり、子供の塾の送り迎えをすることなどを当然のこととして考えず、いつも感謝してくれます。
私は専業主婦なのだから、料理をするのは当たり前だと思ってやっているのですが、夫が「今日もありがとう」と私の家事を評価してくれるので、「いえいえ、こちらこそ、お世話になっております。」という気持ちが自然と湧きます。
夫が毎日仕事をして、私達家族のために、稼いでくれることを私も声にだして感謝しています。

周囲を見渡すと、奥さんの家事を当たり前だと思っている横柄なだんなさん、だんなさんが家族を養うのが当然だと豪語する奥さんたちの夫婦関係はうまくいってないように思います。
やはり、「世は相持ち」という気持ちが夫婦仲も平和にすると感じます。

肺腑を衝く

【漢字】肺腑を衝く
【読み】はいふをつく
【意味】
【例文】

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肺腑を衝くような言葉はカリスマ性抜群

「肺腑を衝く」という言葉をご存知でしょうか?
この言葉は、心の奥底まで響くような深い感銘を与える、という意味で用いられます。

肺腑を衝く言葉を周囲に伝えられる、という人は、強いカリスマ性を持っている人だと思います。
こうした人がリーダーに立てば、人の心を動かすことができ、後ろをついてくる人は出てくることでしょう。

こうした資質というのは天性のポテンシャルの影響も大きいのかもしれませんが、コミュニケーションを取る上で、出来ることなら身に付けたいスキルでもありますよね。
有能な政治家や思想家といった人には、人の心に訴えかけるような言葉の魔力を持っていたように感じます。

肺腑を衝くような言動が出来るようになるための方法として個人的に考えるのは、自分の思った通りのことを自信を持って伝える、というのが大きいように思います。

簡単のように思えますが、案外これが難しいのです。
見栄を張って誇張したような言動をしてしまえば、必ず周囲に見抜かれます。
これでは人としての厚みが感じられず、言葉の薄っぺらく思われてしまうのです。

勿論人生の経験値も物を言うことではあるので、一朝一夕に出来ることではないのですが、将来人を率いる人間になりたいのであれば、意識して損はないかもしれませんね。

杖に縋るとも人に縋るな

【漢字】杖に縋るとも人に縋るな
【読み】つえにすがるともひとにすがるな
【意味】
【例文】

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「杖に縋るとも人に縋るな」は正しいのか

「杖に縋るとも人に縋るな」という言葉の意味は、安易に人に頼ってはいけないという意味です。
「自己責任」「人に迷惑をかけてはいけない」というのは、現代の日本でもよく言われていることですね。
しかし、本当にそれが正しいのでしょうか?
たしかに、杖があれば歩けるのなら、人に助けてもらう必要はないかもしれません。
頑張れば自分の力で歩けるのに、人に頼ったり車いすを使ったりしていては、足腰が弱ってますます歩けなくなってしまうかもしれませんよね。
でも、杖をなくしてしまったり、壊れてしまったら?足が痛くなったり、とても疲れてしまったら?
そんなときも無理をして人に頼らず、自分一人で何とかしようとする必要はないのではないでしょうか。
人はみな、一人で完璧に生きていくことなどできません。食べ物ひとつとっても自分一人では作れないし、きれいな飲み水だって自分で作るのはとても大変です。
誰かのために働くから給料がもらえて、生活できるのです。
だから、自分にできないことは人に助けてもらって、そのぶんほかにできることがあれば誰かの役に立てばいいのではないでしょうか。
人にはそれぞれ苦手なことと得意なことがあるのだから、苦手なことは得意な人に頼んで、自分は得意なことを活かせばいいのです。

「杖に縋るとも人に縋るな」から私が思い出した新入社員時代のこと

「杖に縋るとも人に縋るな」という言葉は、一部の人には耳が痛く感じることでしょう。
この言葉は、安易に他人を頼ったり、助力を求めてはいけない、といった意味で使われます。

私自身、社会人になったばかりの時は、この言葉がグサッと刺さるような出来事がありました。

私は美容の職に携わっていて、完全に技術が物を言う世界で働いています。
しかし、働いたばかりの時は技術も未熟であるため、なかなか一人の戦力として扱われることが無かったのです。
そこで奮起する性格なら良かったのですが、その環境に甘んじていて、先輩を常に頼るようになっていました。

そんなある日、私は急遽一人で現場を任されることになり、誰の力も借りられない状況に出くわすこととなりました。
今まで周囲に頼っていた私は、まさかの展開にとても慌てました。
そして、案の定お客様に満足してもらえるような結果を出すことができなかったのです。

その時初めて、自分で力をつけることの大切さを感じました。
周囲と協力することは仕事をする上で需要ですが、頼りきるということでは自分自身成長がありません。
思い返すと甘ったれの自分に腹が立ちますが、こうした経験があったからこそ、向上心が芽生えたのだと思います。

「杖に縋るとも人に縋るな」という言葉は、新入社員に覚えておいてもらいたいものですね。

明日の百より今日の五十

【漢字】明日の百より今日の五十
【読み】あすのひゃくよりきょうのごじゅう
【意味】
【例文】

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「明日の百より今日の五十」は保守的で好感が持てる

「明日の百より今日の五十」という言葉をご存知でしょうか?
この言葉は、未来のあてにならない大きな利益を期待するよりも、少しでも今確実に手に入るものを選択する方が賢明である、という意味です。
言葉通りにとるなら、明日100万円貰うという不確かな約束よりも、今確実に50万円貰っておいた方が賢い、となりますね。

もしもこうした状況に出くわしたとして、どちらを選ぶのかというのは人それぞれでしょう。
ギャンブルを嗜む人は大きな利益を得るために多少の投資は仕方ない、と考える傾向が多いように考えます。

しかし、個人的には「明日の百より今日の五十」という保守的な考えには、好感が持てます。
特に金銭面に関してはリスクを避けたいので、今確実に手に入る金額を貰いたいと感じるのです。

もし一日待ってプラス50万円貰えるのであればそれは嬉しいことですが、その約束が必ず守られるとは限りません。
「絶対」という言葉は、この場合存在しないと思っているのです。

損をするのは勿論嫌ですが、それ以上に約束を守ってもらえなかったということは、私にとってとても辛いものです。
自分を守るためにも、この「明日の百より今日の五十」という意識は大切であるように感じました。

雀の巣も構うに溜まる

【漢字】雀の巣も構うに溜まる
【読み】すずめのすもくうにたまる
【意味】
【例文】

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雀の巣も構うに溜まる

「雀の巣も構うに溜まる」という言葉があります。「すずめのすもくうにたまる」と読みます。
その意味は、雀が巣の材料を少しづつ運んでやがて一つの巣が完成するように、少しづつの金額でもこつこつ貯金すれば大きなお金になるということです。
近い意味のことわざに、「塵も積もれば山となる」「千里の道も一歩から」「雨だれ石を穿つ」などというものもあります。
何事も、少しづつでもいいから継続することが大事ということです。まさに「継続は力なり」という言葉もあります。
しかし、人間の意志の力というのはとても弱いので、どうしても三日坊主に終わってしまうことが多いのではないでしょうか。
少しづつ買い物や外食を我慢して、貯金しようと思っても、これだけ我慢したのだからたまには自分にご褒美、などと言い訳してかえってお金を多く使ってしまうこともあります。
続けるということは、とても大切な一方でとても難しいことだからこそ、こうした意味のことわざが多くあるのだと考えられます。
ただ我慢してこつこつ続けるのは飽きてしまいます。だから、自分なりに続けやすい工夫をしたほうが成功する可能性が高いでしょう。
人間の脳は怠け者で、楽しいことしか続けることができないものです。

 

露命を繋ぐ

【漢字】露命を繋ぐ
【読み】ろめいをつなぐ
【意味】
【例文】

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多少お金があっても露命を繋ぐような生活を心がけるのは大切だと思います

「露命を繋ぐ」とは「ろめいをつなぐ」と読みますが、このことわざの意味はなんとか細々と暮らしていくという意味ですね。
イメージ的には、全く余裕のない暮らしで、海外旅行に行ったり、高級車に乗り回したり、ステキなレストランで外食をするなどという派手なことを一切せずに、ご飯に卵を乗せしょう油をかけた卵かけご飯がご馳走だと感じるような暮らしです。
とりあえず、なんとか生きて行けるけれどやっと命を保っているというような状態が露命を繋ぐということなんですね。

しかし、この質素に生きるということはお金に余裕があったとしてもやるべきことなのではないかと私は思います。
人は少しでも稼げるようになると高級ブランドバッグやブランド物の時計を買いあさり、高級車を乗り回し、海外旅行に出かけてしまうものですよね。

確かに、お金が腐るほどあるような本物のスーパーリッチなお金持ちはそのような暮らしでもいいと思います。
でも、年収が1千万円ぐらいであれば、もしもの時や老後に備えて質素に暮らした方がいいと思います。
というのも、ちょっとしたお金持ちの経営者が経営が傾き、どん底の生活を強いられるという状況は身近でわりとあります。
そんな話を聞くと、なぜ、稼いでいた時に、この人は貯蓄しておかなかったのだろうかと他人事ながら、思ってしまいます。

世界の大富豪でもない限りは多少稼いでも、露命を繋ぐような生活で質素に生きて、貯蓄をしたほうが私は断然、利口だと感じています。

我が仏尊し

【漢字】我が仏尊し
【読み】わがほとけとうとし
【意味】
【例文】

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「我が仏尊し」では幸せになれない

「我が仏尊し」とは、自分の信じるものだけをやみくもに大切にして、ほかの物を顧みない狭い心の状態のことです。そのような心掛けでは、ほんとうの心の豊かさや幸せを手に入れることなどできません。たとえば、自分の働いている会社が一番素晴らしい、社長の考えがすべて正しいと思っている会社員は、上に言われたことは何でも正しいと思って疑いません。そのような会社員はたとえ間違った指示でも訂正することなく従うので時間とお金の損失を招きます。やがて、会社に都合の悪いデータを隠したり改ざんしたりすることにもつながるでしょう。これでは会社をよりよくするアイデアなどまったく出るわけがありません。会社にとっても、取引先やお客さんにとっても損です。本人も成長することができず、一生会社の言いなりで出世することも給料が上がることもできないでしょう。それに会社が潰れてしまったら、共倒れになるしかありません。これは国の組織にも同じことが言えます。また、家族や恋人、友人関係においても同じです。親の言うことは何でも素晴らしいと思って自分で考えずに生きてしまったら、親が死んだときにその人は自分がどうやって生きていけばいいのかわからなくなってしまいます。親を超えることもできません。ひとつのことを妄信せず、様々な考えを取り入れることが大切です。

「我が仏尊し」状態だった私の学生時代

「我が仏尊し」という言葉をご存知でしょうか?
私はこの言葉を正直、今まで聞いたこともありませんでした。
自分の教養を高めるためにも、この言葉について調べてみました。

「我が仏尊し」とは、自分の良いと思っていることが他のどんなものよりも優れていると思い込む、ということの例えです。
優れているものを「仏」と例えているのですね。

ふとこの言葉を知って思い出したのは、過去の自分の性格のことでした。
私は自分で言うのも恥ずかしいのですが、中学生の頃は比較的頭が良い方だと思っていて、自分の考えることは正しいと思っていたのです。
まさに「我が仏尊し」といった状況だった訳ですね。

しかし、高校生になってアルバイトを始めたことをきっかけに、自分の知らない世界が沢山ある、ということに気付きました。
それと同時に、自分より優れた考えを思い付く人は沢山いると思い知らされたのです。

その頃の自分を思い返すと、なんて傲慢だったんだろうと恥ずかしくなります。
しかし、そうした経験があるからこそ、常に上を目指していこうとする姿勢が身に付いたのだと感じています。

「我が仏尊し」の考えでは、限られた範囲の思案しかできず、成長には限界がある、ということに気付かされた私の体験談でした。

連木で腹を切る

【漢字】連木で腹を切る
【読み】れんぎではらをきる
【意味】
【例文】

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連木で腹を切る

連木とは、すり鉢で物を擦る時に使う棒の事です。
ゴマを擦ったり、何かを擦りつぶしたりする時によく使います。
形は、握りやすいように少し太くて、先は丸くなっている少し長い棒です。
その連木を使って、刃物のように腹を切ることは、絶対できません。
刃物は、物を切れるように刃がついていて先が尖っていたり、厚さはなく薄い形状ですが、連木は、その逆の形状をしています。
つまり、「連木で腹を切る」という言葉の意味は、絶対にできないことをする、不可能な事という意味を指しています。
例文を挙げてみると、「世界一の大金持ちになって、一生遊んで暮らすなんて、まるで連木で腹を切るようなことを言っている」「太平洋を泳いで渡ってハワイまで行くなんて、無茶で連木で腹を切るような話だ」など、どう考えても、普通では不可能なことを言う人に対してこの言葉を使うことが多いです。
ほぼ不可能なことを言う人は、目標を掲げて言っているのでしょうが、どう考えても、実現できるような事ではない事を言うよりも、もっと現実的に、実現できるような、頑張ればできるような目標を掲げて言う方が、聞いた周りの人も応援したくなりますね。
あまり連木で腹を切るような事ばかり言っていると、信用もなくなってしまいます。

連木で腹を切るような考えは案外成功者向き

「連木で腹を切る」という言葉は難しそうに聞こえますが、意味を知れば簡単に使える言葉です。
「連木」とは、西日本の方言で「すりこぎ」を示します。
つまり、すりこぎで腹を切ろうとする、という、普通に考えたら不可能とも言えることをしようとすることの例えとして使われます。

類義語として、「豆腐の角で頭を割る」「切匙で腹を切る」という言葉も挙げられていますね。
しかし、どれを取っても、なんだか物騒な言葉に例えたんだな、という印象です。

最初にも言ったように、今は「不可能なことをしようとすること」という意味で使われている訳ですが、こうした考えをする人がいるからこそ、どんどん私達の生活が豊かになっているんだな、ということを改めて感じました。

普通に使っている電化製品一つを取っても、昔はそんな魔法のようなもの、と言われていましたよね。
そうした発明は、成功以前はきっと周囲には「連木で腹を切るようなもの」と言われたことでしょう。

しかし、変人と天才というのは紙一重であり、そうした考えの人は成功者になり得るものです。
人と同じ考えをしているのでは、大成功というのは難しいのかもしれませんね。

連木で腹を切るような突飛な発想を持つ人は、裏を返せば宝とも言えるでしょう。

累卵の危うき

【漢字】累卵の危うき
【読み】るいらんのあやうき
【意味】
【例文】

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累卵の危うき

「累卵の危うき」とは読んで字のごとく、卵を積み上げたような不安定で危険な状態のことを言います。日常生活でも、まさに「累卵の危うき」といえるような光景がたくさん見られます。まず私たちの暮らすこの国自体が、まさにブラック企業で働く人々、違法な条件で働かされる海外から来た人々、お金も働く場所も子供を預ける場所もなく必死で子育てをする若い世代、世間から白い目で見られる障碍者や弱い立場の人々、さまざまな犠牲の上に成り立っているのです。人々は安い賃金で働き、そして食料品や生活用品、雑貨やサービスなどはどんどん安くなり、結果的には自分の首を絞めているのを知っていりながらも、安さを求めるしかないのです。この丸い卵を積み上げたような不安定な世の中で、もっとも損をしている人々は、自分が損をしていることも知らず、また知っていてもどうすることもできないのです。そのような人々は、今日明日の自分の生活で精いっぱいだからです。特に若い世代は、人口が少ないので選挙に行っても国のありかたを変えることができないと気づいています。そして、あと数年でこの世を去るような老人のために年金や保険料を払い、自分が歳をとったときや障碍者になったときに貰える保証もありません。いっそこんな不安定な卵の山は、早く崩れてしまったらいいと思うひとも多いと思われます。

来者は追うべし

【漢字】来者は追うべし
【読み】らいしゃはおうべし
【意味】
【例文】

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大人こそ思い出したい「来者は追うべし」という言葉

「来者は追うべし」とは、『論語』に由来する故事成語です。その意味は、過去は変えることはできないが、未来のことはこれから変えることができる、ということです。歳をとればとるほど人間は過去のことばかりにこだわってしまいます。また、自分の狭い経験から考えて、未来を変えることなどできないと決めつけてしまいがちです。そういった、大人世代の人こそ、「来者は追うべし」の言葉を思い出すべきではないでしょうか。世の中も、自分も、変わり続けています。過去とは違います。昔、うまくいかなかったやりかたでも、現在ではうまくいくかもしれません。全く新しいやり方を思いつくかもしれません。経験にとらわれず、なんでもやってみることが大切です。行動してみて失敗したとしても、それも新しい経験であり、成長するための気づきなのです。だから、過去の失敗や成功のことは忘れて、新鮮な気持ちで今この瞬間を生きることこそが大事です。歳をとると自分の経験則でなんでも判断してしまいがちで、実際それでうまくいくことも多いです。しかし、それでは毎日が退屈でつまらなく、生きている喜びや幸せを実感することが出来ません。常に新しい考えを取り入れたり新しい体験をしたり、知らない人に出会うことが生活の質を上げることにつながります。

雪や氷も元は水

【漢字】雪や氷も元は水
【読み】ゆきやこおおりももとはみず
【意味】
【例文】

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雪や氷も元は水とは環境によって変わるということ

雪や氷も元は水という言葉があります。これは環境次第で違ってくると言う意味になります。雪も氷も同じ水であるわけですが、状況、環境によってその姿形を変える、ということから環境こそがその人となりを作る、という意味であるわけです。様々なことにそれはいえることになります。氏より育ち、といった言葉と類似しているものであるといえるでしょう。そんなに難しい言葉ではなく、意味としてもそれなりにわかりやすいものであるといえるでしょう。良いのか悪いのか、ということなのですが雪も氷も良し悪しがあるわけではありませんから、この場合は良い悪いをいっているのではなく、あくまで環境などによって同じ物でも違ってくることがある、という意味的には良し悪しという観点はない、といっても過言ではないといえるでしょう。氷も雪も冷たい存在であるからこそ、そうした言い方をされている、という側面がないわけではないのでしょうが、同じ物で状態としてかなりの違いがある、というように昔の人は見ていたわけです。但し、実際には雪はある意味では一種の氷であるといえます。ほぼ凍った状態であるといえますから、実際には物そのものに違いは本当にないといえます。

雪や氷も元は水

綺麗な雪も氷も、両方とも元は、同じで水からできています。
元が同じであっても、その後の環境などの影響で、それぞれ違った形や物になるということを意味しています。
分かりやすく例えて話をすると、自分が産んだ子供が2人、または3人でもそれ以上でもいいのですが、複数人の子供がいるとします。
元と言うのは、自分つまり母親で、同じ母親から生まれたけれども、成長するにあたってそれぞれ、性格や個性が違ってきます。
全く同じ環境で同じ接し方で育てると言う事は、ほとんどの場合、まずないでしょう。
最初の子供でしたら、育児も初めてで、何も分からず、気持ちにも余裕が持てず必死に子育てをします。
ちょっとしたこと、例えば、少し風邪を引いた、少し怪我をしたなどの場合でも、神経質になりがちで、すぐに慌てて病院へ連れて行ったりすることがよくあります。
2番目の子供の場合は、最初の子供の時の経験もあるので、多少、子育てに対して気持ちにも余裕が出できます。
上の子供の時は、こうやったけど、下の子が同じような場面になった時は、別の方法をしたとか、違いが出てきます。
どちらにせよ、愛情を持って一生懸命に子育てをしてきたのには間違いないのですが、育っていく環境や状況で、同じ母親から生まれた子供であっても、それぞれ違ってくるということです。