気は心

【漢字】気は心
【読み】きはこころ
【意味】少しばかりの真心。
【例文1】気は心をお隣さんにおすそ分けをしよう。
【例文2】気は心のお土産を渡す。
【例文3】気は心ばかりのお礼をする。

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気は心を忘れないようにしたい

誰かから贈り物をもらった時に、その値段がいくらだったかを調べる人がいます。
贈りものの値段と気持ちの大きさは必ずしも一定ではないと思っています。

気は心で、贈る気持ちが大切なのだと思います。
そのため、贈られた金額や大きさ、量などとは関係ないと思います。

贈られたものの値段をチェックして、それでその人の人格などを判断するのは、とても卑しい人のような気がしてしまいます。

贈りものは高くて多ければ良いというものでもないと思います。
贈られたら逆に何かお返しをしなければなりません。

そのやり取りが面倒で、最近ではそういった贈り合うことを控えている人もいます。
私は人に何かを贈る時、相手の負担にならない程度のものにしています。

高価なものでは逆に気を使わせてしまいます。
そうでなければお返しを期待することもないですし、貰う方もお返ししなければという気持ちにはなりにくいと思います。

気持ちや心は見えないものなので、時には値段や物の価値、または大きさや量などでその人を判断してしまいがちです。
しかし、それが相手の大きな負担になってしまうこともあります。

何かを贈る時は必要以上に高価なものを贈って、かえって相手に気を使わせてしまうことがないようにしたいものです。

シンプルだけどかなり難解な「気は心」という言葉

中学生ぐらいの時に、母親が「気は心」という言葉を使ったのを聞いて、「なんだ、それ?」と思いました。
「気も心も同じことじゃないの? わざわざ『気=心』と言う意味が解らない。そんなこと言うまでもないことなんだから」と思ったからです。
母に「どういう意味?」と聞きましたが、私が納得できる答えが返ってこなかったことを覚えています。
その後も、母は何かにつけて「気は心」という言葉を使いましたが、私には理解不能。その言葉の意味は、調べてみてわかっています。「ほんの少量や少額ではあるけれど、そこにその人の真心を表れている」というのが、おおよその意味と考えていいでしょう。
たとえば、餞別を人に渡すとき、「ほんのわずかでお恥ずかしい。まあ、気は心というから受け取ってください」というように使われるわけですね。
でも、どうしてそれが「気は心」なのか、これはかなりの難問です。
私なりに考えたのは、「気」というのは、「そのわずかなものを人に贈るという気持ち、意志」であり、「心」は、「そうした行為に表れたその人の誠意や思いやり」である、という解釈です。
つまり、「気」は行動する意志であり、「心」はその行動の原動力になった心情というのが、私の解釈なのです。
「気は心」、大変にシンプルなのにも関わらず、正確に意味を解読するのはきわめて難しい言葉なのではないでしょうか。

気は心でわずかなお礼でも何もないより数段うれしいものです。

芸術の秋になりました。以前に公共ホールを管理している部署にいた関係で、音響や照明を少しかじったことがある私は、よくアマチュアのグループからイベントの音響などを頼まれることがあります。多くはそのホールを私が勤務していた当時に利用していた方々で、その当時からの付き合いですので、ほとんどボランティアのような形で仕事を引き受けるのですが、中にはイベント終了後に、お酒であったりビールであったり、謝礼として現金であったりをいただける場合もあります。基本的になじみの方々なので、そのような報酬を当てにして手伝っているわけではないので、何もない場合も多々ありますが、わずかばかりでもそういった心遣いをいただけると、また手伝おうかという気持になります。こちらとしては多少趣味と実益を兼ねているような部分もあり、あまり音響や照明に携わらないでいると、忘れてしまうような面もあるので時々はやっておこうくらいの気持ちでやっていますので、ボランティアでも全然大丈夫なのですが、やはりそういったものがあるとうれしいものです。気は心とも言いますし、謝礼などの量ではなく依頼する側に感謝の気持ちがあるのだという事は、頼まれる側としても意気に感じるものなのではないでしょうか。そういったケースに直面するたびに私自身も逆の立場になったらそうできる人になりたいといつも感じてしまいます。