水魚の交わり

【漢字】水魚の交わり
【読み】すいぎょのまじわり
【意味】水と魚が切っても切れないことから離れられない親密な関係をいう。
【例文1】小学校から水魚の交わりの30年来の旧友と旅に出る。
【例文2】20年の付き合いで水魚の交わりだから言葉にしなくても友人の考えがわかる。
【例文3】地元の友人は離れていても水魚の交わりだ。

水魚の交わりの語源

水魚の交わり(すいぎょのまじわり)とは、水と魚の関係のように離れることができない親密な交際や必要不可欠な間柄。また、主従関係や夫婦、友人と仲睦まじいことの例え。魚は水があってはじめて生きられることからから転じて用いられています。
 
もともと水魚の交わりは中国の『蜀書 諸葛亮伝』を原典とする故事成語です。『三国志演義』の中に出て来る逸話としても親しまれています。

劉備は三顧の礼を持って諸葛亮(諸葛孔明)家臣に迎えてから、劉備と諸葛亮が親交を深めていきました。そのことを古参の家臣である関羽や張飛は快く思いませんでした。

劉備は関羽と張飛に『水魚の交わり』という言葉を出して語りました。
「私が諸葛孔明を得たのは魚が水を得たようなもの。諸葛孔明の軍師としての器量を愛することは、夫が妻を愛おしく思うようなものだ。桃園の誓い交わした私たち義兄弟の契には何も影響しない。」

古代中国では魚は恋人、配偶者の暗喩です。すなわち劉備と諸葛孔明は夫婦のような関係で常に一緒にいるのは当たり前。劉備と関羽と張飛との義兄弟の関係とは別である。そう言った劉備に関羽と張飛は納得しておとなしく引き下がったとされています。

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「水魚の交わり」って何?

「水魚の交わり」という言葉は三国志諸葛亮伝に出てくる言葉で、水と魚の関係のようにきわめて親密なつきあいのことを言います。「水魚の親」「水魚の因(ちなみ)」も同じ意味の言葉です。魚は水がなければ当然生きてはいかれません。きわめて親密なつきあいなら傍から見て何も問題ないように思えます。でも、ちょっと待ってください。こういう言葉もあります。「水、清ければ魚住まず」あまりに清廉潔白な人だと近寄りがたく、友人が少ないという意味ですが、水が綺麗すぎると魚の餌になるプランクトンが住むことができないので魚も当然住めません。「水魚の交わり」が市販のミネラルウォーターのように二人の関係性に透明感のあるものならいいのですが、泥水を二人ですするような関係性だったとしたら最悪です。政治の世界でも個人の交友関係が、問題にされる場合があります。二人の関係がずぶずぶの依存関係だった場合、収賄や汚職が懸念されでも仕方がありません。「朱に染まれば赤くなる」という言葉もありますし、「類は友を呼ぶ」などという言葉もあります。政治家として国家の運営に携わる者でしたら、襟を正してご自分の交友関係もよく見直してみるべきですね。自分を正しく良い方向へと導いてくれる友人と「水魚の交わり」ができればこれ以上の幸せはないでしょう。