無念無想

【漢字】無念無想
【読み】むねんむそう
【意味】仏語で邪念がなくなり心が澄みきった状態。
【例文1】滝行でストレスが解消され無念無想になった。
【例文2】お祓いで無念無想になる。
【例文3】厄払いをして無念無想になる。

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無念無想

人生とはいったいなんだろう。

幸せを求めれば必ず出てくる弊害、人間関係、貧困、愛、その他色々な格差。
幸せになるために皆が皆が争い、全員が幸せになることは絶対にない。

最近で言えば北朝鮮がミサイルを打ってきたり、ISISがテロ活動をしているのも幸せになろうとしてやっていることだろう。

そして被害を受けるのは仕掛けられた人々なのだ。
勝った人々が幸せになり、負けた人々が不幸になる。そしてそれが繰り返される。

こんな世界で何かを考えたり、何かを欲しがったり、しても必ず不幸な人が出てくる。
これらのものを一切捨て去った方が幸せになれるのではないだろうか?

無念夢想とは、一切の邪念から離れて、無我の境地に到達した状態を指す。
元は仏教の言葉だが、本来人が目指すべきなのはここなのではないか?
物や、思想によって争いが起こるのならば捨ててしまった方が良いと言う感じに私は解釈している。

現代は色々な物で溢れ帰っているが、本当に幸せだと言う人は少ないように思える。
自分自身今生きていることが幸せかと言われたらそうだとは断言できない。

持っている事が幸せなのではなく、持たないことが幸せなのだとしたら、無念夢想の境地を目指してみるのもいいのかもしれない。

無念無想

皆さんは無念無想という四字熟語をご存知でしょうか?
日常生活でなかなか耳にすることがない四字熟語だと思いますが「一切の邪念から離れ、無我の境地に達した状態」「単純に何も考えてない有様」などの意味があるそうです。

仏教語であり、よく座禅の時に使われる言葉だそうです。
私は座禅の経験はないのですが、瞑想を毎日の日課に取り入れてます。

瞑想の効果としてはストレス解消や安眠効果、自分の本心に気づき本当にやりたいことが分かる、集中力アップなど様々な嬉しい効果があるのですがやってみると「何も考えない」ことがこんなに難しいのかと驚きました。

座って胡座をかく瞑想や寝るような体勢での瞑想など、瞑想にも色々なやり方や種類があるのですが私は寝転がり楽な姿勢で目を瞑るスタイルで瞑想をしてます。

色んなやり方や種類があれど瞑想の極意はただ一つ。「無念無想」です。
一切の雑念や邪念から離れ、無我を目指します。
自我から離れることで初めて本当の自分に気づくからです。

私の場合は瞑想に入り始めの方は呼吸に集中し雑念から離れられるのですが、2~3分経てば今日の仕事のことや明日の予定など雑念に支配されます。
雑念に気づいたらまた呼吸に集中するよう意識します。
ずっとこの繰り返しです。実に地味な作業です。

しかし、瞑想を取り入れてから確かに集中力が増したような気がするし、何より心が安定しているように感じます。
忙しい現代人にはもってこいの一つのリフレッシュ方法だと思うので、皆さんも一緒に「無念無想」を目指して日常生活の中に瞑想や座禅を取り入れてみてはいかがでしょうか?

無念無想の難しさ

一心不乱とか一所懸命ならば、一つの目標に向かって集中力を高める行為で程度の差はあれ誰でも実行可能です。
しかし無念無想を体現するとなると些か難しいように思えます。
想念から離れた無我の境地に至るとか、欲得が全ての現代人には無縁の世界です。
武道やスポーツなどの厳しい修行の積み重ねにより、考えるたり感じたりする前に行動できるように訓練された身体を持てば良いのでしょうか。
確かに反射的な反応には思考をするような時間が入る余地はありませんから、無我の状態と言えなくも無いです。
しかし突然の出来事にとっさに反応することで、無念無想と言われても何か納得できません。
徳の高い禅宗の僧が座禅をくんでいる様子などは無念無想の状態に入っているように思えます。
しかし修行が浅いというか凡俗の身からすると、夢を見ずに眠っている状態と何が違うのか上手く説明できません。
姿勢が違うだけで脳波的には同じ精神状態なようにも思えます。
一つの事に集中している状況の方が余程、雑念から遠い位置に至っているのではないでしょうか。
何だか、無理をして座禅や修行で無念無想の精神状態を作る必要もないような気がします。
無駄にあれこれと悩むより、普通に自分自身を保つことで対応する方が当たり前の結果が得られます。
とりあえず暇にならない限りは無念無想などという贅沢は出来ないです。