鶏を割くにいずくんぞ牛刀を用いん

【漢字】鶏を割くにいずくんぞ牛刀を用いん
【読み】にわとりをさくにいずくんぞぎゅうとうをもちいん
【意味】鶏を割くのに牛を切る大きな包丁は用いないことから、小さな事を解決するのに、大がかりな手段は必要ないこと。
【例文1】幼稚園児のぬり絵に鶏を割くにいずくんぞ牛刀を用いんで、アクリル絵の具はまだ早いでしょ。
【例文2】ちょっとそこまで行くのにタクシーは鶏を割くにいずくんぞ牛刀を用いん。
【例文3】子どもの喧嘩に親は鶏を割くにいずくんぞ牛刀を用いん。

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物事を処理するのに、その手段は適切?「鶏を割くにいずくんぞ牛刀を用いん」

「鶏を割くにいずくんぞ牛刀を用いん」ちょっと聞きなれない言葉ですが、多くの含蓄に溢れた言葉です。
中国にあまりなじみのない人でも、「牛刀」とは牛を解体する大きな包丁であることはお分かりいただけると思います。
割かれるのは小さな鶏、それを解体しようとするのは不釣り合いに大きな牛刀、ちょっと考えただけでもアンバランスですよね。
これが転じて、小さな物事に当たるのに、有能な人物を配したり、大げさな手段を用いる必要はない、という意味になりました。
ちなみにこの言葉は、孔子の故事に由来しています。
孔子の弟子である子游という人物が、武城という街の長になったとき、孔子の教えである礼楽(礼儀と音楽。孔子が国政の基本として弟子に教えたもの)を実施しているのを見て、「小さな街なのに、一国を治めるような施政を施す必要があるか」という意味で「鶏を割くに・・・」という言葉を言ったのです。
ちなみに、弟子の子游は「礼楽の道は上のものにも下のものにも施すべきであって、それでこそよく治まると先生に教わりました」と返したそうです。
それを聞いて孔子は「君が正しい」と弟子を認めたとか。
小さな物事を処理するのに、大きな手段を用いる必要がない、というのはそのとおりですが、孔子と弟子の場合に限って言えば、弟子の方に軍配が上がったようですね。
とはいえ、日常、物事を処理するのに不適切な手段を用いるのは確かにおかしなもの。
適切な手段を使えるよう臨機応変に対応したいですね。