小田原評定

【漢字】小田原評定
【読み】おだわらひょうじょう
【意味】いくら話し合っても長引いて結論がでない。
【例文1】これ以上彼と話し合っても小田原評定だ。
【例文2】君と議論しても小田原評定だ。
【例文3】小田原評定で会議が長引く。

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時間がかかるのは小田原評定、ぶら下げるのは小田原提灯

驚くべきことに戦国時代の北条氏は月に2回の重臣会議で諸事を決定する合議制を取っていたそうです。
ことわざとしての小田原評定は、長い時間かけても結論が出ない虚しい議論ですが、北条氏の結束力をみれば十分機能していたようにも思えます。
ただし、有効なのは緊急性がない十分な議論が可能な場合に限られるようです。
政策や経済であれば中間的な方針もありですが、戦闘にあっては中途半端な策は大抵が下策と評されます。
歴史で小田原評定と呼ばれるのは、天正10年(西暦1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐に対してどのように応ずるかを議論したときの話です。
籠城するか出撃するかでまずひと悶着あり、包囲された後では降伏するか決戦するかで議論があったようです。
結局、長い議論や抗戦も虚しく北条氏は滅亡してしまいます。
北条氏とは関係ないですが、小田原といえば小田原提灯が思い浮かびます。
お猿のかごやの歌詞に出てくる、折りたたみ式で携帯しやすい円筒形の提灯です。
小田原提灯が出来たのは江戸時代の中ごろと言われますが、それでも数百年以上の歴史があるのですから大したものです。
議論などと言うものはその場で考えるものではなく意見を取捨選択するべきで、時間で作られるものは小田原提灯のような文化価値だけで十分です。
と、無理矢理に話しを締めくくることをお許しください。

小田原評定という言葉の皮肉

「小田原評定」という言葉は元々は戦国時代、関東の雄の北条氏由来の言葉です。この戦国大名北条氏は非常に民政家として有名であり一例としては税金は四公六民だったと言われています。つまり6割は自分達で作った農作物を自分達のモノに出来たという事です。現代の感覚だと「税率40%!?高すぎる!」と思うだろうが、戦国時代の税金としては破格の安さなです。税率半分の五公五民でも善政と言われ過酷な場所では六公四民やもっと重い税率も普通に罷り通っていました。そんな善政を敷いた北条氏が大名家としての方針を決める時はどうしていたか、家臣達と合議して決めていたのです。家臣達も自分の意見が反映されるという事で盛んに意見を出し合っていたと予想されます。今風に言うなら遣り甲斐のある職場だと思います。下剋上や一揆が頻発する戦国時代でありながら北条氏は大国であるに関わらず他の大名家に比べそれらの話は驚くほど少ないです。そんな北条氏の政治体制を表す言葉の一つが「小田原評定」です。そう、決して悪い意味の言葉では無かったはずなに。この言葉がネガティブな意味の熟語になってしまったのは豊臣秀吉の小田原征伐の事です。先に書いたとおり北条氏の方針を決める時は合議制、国のトップの大名が「こうします!」と考えていても簡単に決定は出来ません。合議ではどう戦うか、降伏するかなど意見が分かれてしまい方針が定まらずに結果、秀吉にそのまま滅ばされてしまったのです。この出来事で「小田原評定」という言葉が「一向に結論がでない会議や評議」という意味の故事として使われるようになったと言われています。現代でも政治家達の議論が進まずにぐだぐだしている様子などをこの言葉で例えられる事があります。勿論それはポジティブな意味合いで使われている訳ではありません。民政家であった北条氏を象徴するような言葉「小田原評定」それがこのような意味合いで使われるようになるとは皮肉なものです。